-ささやかな胡桃パン-

『海外文学』と日々のたわいもないノート

不安定な世界を死者と漂うミステリのふりをした後悔/『イザベルに ある曼荼羅』アントニオ・タブッキ

おおいぬ座の最輝星シリウスからやってきたという男が、ある女性を探し求めて彼女と関わった人たちの記憶を頼りに、ポルトガルからマカオ、スイスアルプスへと世界各地をふわり漂う。

イザベルに: ある曼荼羅

イザベルに: ある曼荼羅


      (作:ささやかな胡桃パンの人)


『レクイエム』のなかに

実はこの『イザベルに ある曼荼羅』のタデウシュ(探す男)とイザベル(探される女)は、タブッキの『レクイエム』(1991)という作品の中にすでに登場している。

『レクイエム』はある詩人との約束の時間までリスボンを彷徨いながら生者死者たちと会話する男の話なんだけど、その会話相手のひとりとしてタデウシュ、その会話、記憶の中にイザベルが出てくるのだ。

以前『レクイエム』を読んだとき、その謎めいたイザベルという女性の存在が気になって(とても興味をそそられるように書かれている)、よしじゃあ次はこの『イザベルに ある曼荼羅』を読もう、と思ってはや数ヶ月、ふらふらと彷徨いつつも遂に読むタイミングを得たのである(移り気な性格は困りもの)。

僕はあの言葉がイザベルと関係があるのではないかと思いつづけてきた。だからここに来たんだ、彼女のことを話すために。彼女の話ならあとにしよう、タデウシュはそう言うとそのまま歩きつづけた。 -『レクイエム』(白水Uブックス)p44

あとにしよう、と言ったその彼女の話がこの『イザベルに ある曼荼羅』で聴けるというわけ、なんだけど…

浮遊する死者の魂

タデウシュは時間を超え、空間を超え少しずつイザベルへと近づいていく。それにつれ読者もイザベルについて知ることになるのだけども、しかし読み終える頃にはイザベルについて結局何も知らないことに気づく。そもそも存在したのかさえ、僕らには知る由もない。

そう、肝腎なのは探求すること、みつかるかみつからないかはどちらでもよいのです。-『イザベルに ある曼荼羅』(河出書房新社)p156

この小説には時間や空間、生死の境界はなく、すべて存在しかつ存在せず、読んでいると自分自身の存在所在もあやふやになっていくような不安定な感覚になる。前半はタデウシュが「イザベルという謎」を少しずつ解明していくミステリーのように読めるんだけど、途中から「何だか様子がおかしいぞ」となり気づけば「ここはどこ?わたしはだれ?」となって最終的に自分が「生きているのか死んでいるのか」さえわからなくなる、という感じ。いやさすがに生きてはいるけども。(この不可思議な浮遊感。タブッキの小説を読む醍醐味)

ミステリーっぽく始まって、だんだんアイデンティティを見失っていくという似たような話に、マイフェイバリット作家ポール・オースターの「幽霊たち」がある。「死者の魂が目にはみえないが其処にある」という感覚がタブッキの作品と共通しているような気もする。(ただタブッキと違い、オースターの浮遊は地面すれすれだ)

はっきり言います、死とは曲がり道なのです、死ぬことはみえなくなるだけのことなのです。-『イザベルに ある曼荼羅』(河出書房新社)p94

(これはペソアの言葉だね)

幽霊たち。そう、我々のまわりは幽霊たちであふれている。-『幽霊たち』(新潮文庫)p80

イザベルとはどんな女性なのか。タデウシュが何故イザベルを探し求めるのか。この小説を読む者の中で死者たち(幽霊たち)は生き、そして語ってくれるだろう。

ただそれが本当かどうかは僕は知らない。

大丈夫だよ

『レクイエム』を読んでいなくても、『イザベルに ある曼荼羅』単品で読んで大丈夫。だけど、セットで読むとより楽しめるよ。

イザベルに: ある曼荼羅

イザベルに: ある曼荼羅

ついでに『幽霊たち』もどうぞ。

幽霊たち (新潮文庫)

幽霊たち (新潮文庫)