-ささやかな胡桃パン-

『海外文学』と日々のたわいもないノート

自分ではない誰かへ書くということを考えたけれども結局ただ続けるしかないのかと思いでもまた…

なにか小説を読みたいなと思って、まあ「売れてるってことは面白いってこと」だろうと、とりあえずベストセラー小説なんぞ買って読んでみるが、ふと気付けば部屋の片隅でホコリをかぶってしまって寂しそうに…。あるよね。

小説を読みたいけど、なかなか読み切ることができない人って、多分出会ってないだけなんだろう。「自分の」小説に。

というか、いくら沢山読んでいたとしてもそうそう出会うものではなくて、何冊かに一冊「あ、これかも」というのがひょこっと現れるというくらいのもので、結局あれこれ手を出してみるしかないのである。

いわゆる読書好きと自負する人たちだって本当のところ、自分がなにを好きなのかわかってなくて、もっと好きな小説があるはずだとひたすら買っては「積みあげる」という作業を繰り返す。

そんな風に、「自分の」小説に出会うためには行動しなくてはいけないのだけど、みな忙しいしなかなか難しいところもある。経済的にも負担はあるし。

でも、それだからこそ「書評」や「レビュー」ってのがある。これらは、こういう小説があるんだよ、ということを教えてくれるもので、それを参考に選んでみると的中率は多少なりとも上がると思う。

が、僕のブログのように全然紹介になっていないような文章を読んでしまうと余計錯乱してしまうかもしれない。

いや、なにが言いたいかというと、もうちょっとちゃんと小説を「紹介」する文章を書きたいなということでありまして。「あ、これ読んでみたいな」と思ってもらえるように。

…で、それってどうやるの?という感じではあるんだけども、まああれか、読み手を意識して書けばいいってことだろう。そりゃそう。

でも相手は「自分」ではない。「自分の」小説に出会った喜びを表現するのに、相手を意識する必要はないではないか、と思わなくもない。…難しいねぇ。

あ、そういえば前にも似たようなこと書いたな、と今気付く。ぐるぐる回って元の場所。で結局、とにかく続けるしかないか、となって日々は過ぎていく。

いつも読んでくださっている方々、本当にありがとうございます。アメニモマケズカゼニモマケズめげずに付き合っていただけると嬉しいです。

企み。

(密かに、いつかまとめて本(紙でも電子でもいい)にしたいなと考えている)