ささやかな胡桃パン-海外文学と遊ぶ

主に『海外文学』と『読むこと書くこと』あれこれエッセイ

怒りという自由『フィンケルスティーン5』in『フライデー・ブラック』ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー

アメリカ文学
ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー
『フライデー・ブラック』(2018)


僕は、ブラックミュージックが好きだ。あの、気持ちいいほどの感情の爆発と力強く腰にくる音楽。しかし、そんな彼ら黒人の中には、「未だに」こんな風に感情を抑え込まざるを得ず普段の生活を送っている人たちがいる。

腹が立ったら微笑む。叫びたい時には囁く。これがブラックネスの基本だ。 -ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フィンケルスティーン5』

「ブラックネス」という言葉にどちらかと言えばポジティブ(クール)なイメージを持つ僕にとって、そんな彼らの姿は出来れば想像したくはないというのが正直なところだが、しかしこれは紛れもない事実なのである。

まあ確かにそういった背景があるからこそ、彼らのあのパワフルな音楽が生まれるというのもあるんだけどね…。でもね。やっぱりなんだか悔しい。

なくならない人種差別

今も昔も、世界中様々なところに差別は存在するが、アメリカでの黒人に対する人種差別も本当に根強い。奴隷制度から南北戦争、ブラックパワー。最近では「ブラック・ライヴズ・マター」という社会運動が起こっている。だが差別は無くならない。怒りを感じずにはいられない。

ディアンジェロも歌う。  

All we wanted was a chance to talk.
'Stead we only get outlined in chalk.
「欲しかったのは話し合う機会だけだった。 代わりに手に入れたのはチョークで引かれた死体の後」
-D'angelo『The charade』

無抵抗な人間を銃で撃っても無罪になる警官もいる。

自分の中の差別心

しかし、そうやって「差別」を批判するのは容易いが、自分の中に、気づかないでいる無意識的な「差別」の心は絶対にないと言えるんだろうか。「偏見」を誰もが持っているように、もしかしたら何かに対する差別的な感情も知らず抱いているのではないか。

多分あるのだ。あるからこそ差別を批判するのだろう。認めなくてはいけない。認めないことには、差別は差別を呼ぶ。

「ブラック・ライヴズ・マター」に対する「オール・ライヴズ・マター」「ブルー・ライヴズ・マター」。反発に対する反発。やられたらやり返す。

この怒りに終わりはあるのだろうか?
-ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フィンケルスティーン5』

ないのかもしれないが…。

彼らの叫びを聞け

「どうすりゃいいんだよ!」と叫んだ『フィンケルスティーン5』の主人公エマニュエル。その声がもし多くの人に届けば、もしかしたらその怒りは終わりに近づくかもしれない。少しでも。

このブレニヤーの短編『フィンケルスティーン5』が出来るだけたくさんの人に届くことを願う。真実はフィクションの中にある。

他の短編も良かったのでまた後で何かしら。