-ささやかな胡桃パン-

『海外文学』と日々のたわいもないノート

包み隠された何か/『ヌメロ・ゼロ』ウンベルト・エーコ

イタリア文学
ウンベルト・エーコ Umberto Eco
『ヌメロ・ゼロ』(2015)

ヌメロ・ゼロ (河出文庫 エ 3-1)

ヌメロ・ゼロ (河出文庫 エ 3-1)

エーコの遺作。


エーコの陰謀

人間の記憶というものが不完全であるならば、その人間によって語り継がれる「歴史」もまた不完全なものである。僕らが学生時代の授業で学んだ「歴史」は、いとも簡単に覆され、さらに新説というのが次々と現れる。

もはや信じられるものは何もないのではないか、と思うほどに嘘にまみれたこの世界にあって、「陰謀論」なんてものに心惹かれるのは当然と言えば当然なのかもしれない。

結局のところ、真実かどうかを知ることよりも「もしかしたら本当はこうかもしれない」と疑い、考えを巡らせることに意味(もしくは快楽)があるような気もするし。

おれたちは偽りに囲まれて生きている。嘘をつかれるのだと知ったら、疑いながら生きなければならない。おれは疑う。いつだって疑う。
『ヌメロ・ゼロ』(河出文庫) p50

ウンベルト・エーコの『ヌメロ・ゼロ』は、真実を包み隠し僕らを欺く誰かの「陰謀」や、いかにして記憶を改ざんさせられているのかというようなことを知らせる、エーコの「陰謀」である。

自分は自分で

そういえば、ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』は「自分自身で記憶を都合のいいように改ざんしている」というような話だったけれど、この『ヌメロ・ゼロ』は、「誰かの都合のいいように記憶を改ざんされている」という話で対称的だ。

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しかしその違いはあれど、どちらもやはり「自分が生きる世界(自己の&他者の)に注意深く生きよ」と言っているような気がする。なんだかんだ、自分は自分で救い出さなければならないということか。

海外文学で学ぶ

小説という虚構の中に史実の紛れ込んだこの『ヌメロ・ゼロ』は、いかにその史実も疑わしいかということも伝えているが、何より史実(一般的にそう思われているもの)を知るキッカケにもなる。

エーコは知識が豊富すぎて、調べ物をしながらでないとなかなかついていけないんだけども、しかしそれだけ勉強にはなるのである。まあ、エーコに限らず、海外文学を読むということはその国の歴史や文化を学ぶことでもあるわけで。

知らないことが沢山あるというのは、これからまだまだ学ぶことができるということだ。何かを「知ること」は悲しみであり悦びである。この先どうなるかはわからないけども、なるべく「知りたい欲」には忠実に、これからも沢山海外文学を読みたいと思っている。