ささやかな胡桃パン-海外文学エッセイ

『海外文学』と『読み書き』にまつわるあれこれエッセイ

『書評ブログ』は気負わずまあとにかく気楽に始めようよ

小説を読んでばかりではいけない。世間ではインプットよりアウトプットを増やせと喧しいので番外編。  

「書評ブログ」について。


スタイルの向き不向き  

書評ブログというのが巷で流行っている。と言うわけでは全くないが、始めてみたいという人はまあまあ居るようで、時折『書評ブログの書き方』といった記事なんかを目にしたりする(僕自身が検索しているからだが笑)。

読んでみると、「おお、なるほど」と思うことが書かれていたりもするが、実際それを実践するかといえば、答えはノーである。しかし、ノーといってもそれは「しない」ではなく「できない」であって、やはりブログ(文章)の書き方は十人十色、向き不向きというものがあるのだと感じる。

じゃあ自分はどういうものが向いているのか、ということをを知りたければ、結局色々書いて試してみるしかない。当たり前かもしれないが、それが一番だと思う。

書評とそうでないもの

最初に「書評ブログ」と書いたが、これは便宜的に「読書をしてそれについて何かしら文章を書くブログ」の全てを勝手に内包させて、そう書いた(この記事ではそういうことにする)。つまり逆に言えば、「書評ではないそういうブログ」があるということで、むしろそっちの方が多いのではないかとも思っている。僕の書いているこのブログも多分そうである。

その違いは何かというと、その本について評するかしないか、というよりその目的にあるような気がする。それは、「読者に紹介するという目的」があるかどうかということである。一概には言えないかもしれないが、概ねそうではないかと思う。さきほど向き不向きを知るために「色々試す」と書いたが、色々というかまず「紹介する目的があるかないか」それぞれで試しに文章を書いてみるといいかもしれない。

簡単に言えば、「他人のため」に書くのか「自分のため」に書くのかを意識するということである。

『書評ブログの書き方』的な記事は、基本的に「紹介する目的」が前提にあって、それを達成するためのロジックを「紹介」しているものが多い。勿論それもやりがいがあって、魅力的ではある。が、やはりそもそもそういうものを「書けない」という人は結構いるのではないか(僕も含め)、という気がする。そういう人は、「他人のため」ではない「自分のため」に書くのが無理もなく自然だし、何より楽しめるのではないかと思うのだ。勿論、「他人のため」に書くことができる人は、それはそれでいいのだし。要は無理をしないことである。

書評はかんたんでいい    

無理をしないということで言うと、「自分のため」だろうが「他人のため」だろうが、「書評ブログ」というのは、なんとなく本の話をしてさえすればいい。

今日は寒かった。さっさと家に帰ってカーヴァーの短編「ささやかだけれど、役にたつこと」を読んで身も心も温まった。おわり。  

ただの日記だが、これでいいのである。レイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど、役にたつこと」が心温まる短編だと言うことが読み手に伝わってさえいる。まあこれだったらTwitterでいいだろうと言われるかもしれないが、その向きはさておき、これくらいなら簡単に書けそうだなと思ってもらえれば幸いである。

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

『書評ブログ』やろうよ  

僕自身、結構長いこと「書評ブログ」を書いてきて(4度ブログを引越した。笑)、いまだに大したことは書けないし、何で書いてるんだろうと悩むこともなくはないが、それでもやめられない楽しみの一つであることには変わりない。勿論これからも続けていくだろう。

もし「書評ブログ」を書きたいと思ったらのなら、とにかく始めてみてほしい。勿論「書評ブログ」に限らずだが。

そもそもの目的が「マネタイズ」だろうが、「日記をつけたい」だろうが、ブログはやはり楽しくなくては続かない。ブログを始めてもなかなか続かずフェードアウトしていく人が多いのは、どこか無理をしてしまうからだろう。まあ別につまらなければ、やめたらいいのだけど、ブログを書き続けることで文章を書く楽しみを知った僕は、せっかく始めたのならもう少し続けて欲しいなと思うし、これから始めようかという人が「ブログってこんなテキトウでもいいんだ」と思えるものを沢山書いていきたいと考えている。

(意外と「他人のため」っぽいの書いた。こうやっていまだにふらふら迷走してるのは内緒。)