-ささやかな胡桃パン-

『海外文学』と日々のたわいもないノート

ダメ人間たちに映し出されるアメリカの苦悩/『十二月の十日』ジョージ・ソーンダーズ

アメリカ文学
ジョージ・ソーンダーズ
『十二月の十日』

十二月の十日

十二月の十日

この短編集の登場人物たちが「ダメ人間」であるというのならば、紛れもない、僕も間違いなく「ダメ人間」である。だからあまり言わないで。彼らを「ダメ人間」だなんて。

というのも、この『十二月の十日』というジョージ・ソーンダーズの短編集の書評などを読んでみると、そこかしこに「ダメ人間」という言葉で彼らを表現しているのを見かけるからである。

いや別に、見下してそんな風に書いているのではないのだろうけども、彼ら登場人物たちに普通に共感してしまう僕は、その評を見て「あ、僕はダメ人間なんだ」と思ってしまったわけで、それはまあその通りなんだけども、何というか、この短編集を読んでいて少し心の安らぎを得られたなぁ、と思ったところでまた突き離されたような、そんな感覚になってしまったもので。ああ書評に振り回されてはいけない。

まあね。「ダメ人間」で何にも間違っちゃいないんだけども。笑。しかしですね、その「ダメ人間」たちがいいんです。愛すべきダメ人間たちよ。あなたたちに僕は救われたのです。

とまあ、そんな「ダメ人間」たちが沢山出てきて、アメリカという国が抱える問題やその歴史、さまざまな苦悩を映し出す鏡になってくれているというのがこの『十二月の十日』という短編集の主成分なのである。いやアメリカだけの話じゃないんだけども。

そういえばこないだ読んだブレニヤーは、ソーンダーズの教え子らしいけど、この短編集の雰囲気、国や世界の社会問題を個人や家族の行動や声に落とし込むやり方とか、ちょっとSFチックな設定とか似てるね。

www.sasayakana-kurumipan.com

師匠のほうが俗っぽい感じが強いかなとは思うけど、どちらも基本的に読みやすいし、面白い。

ソーンダーズの文体は今の若い作家が一番真似したい文体だという話なので、とりあえずこの『十二月十日』を読んでおけば今のアメリカ文学の傾向がわかるのかもしれないね。

興味がある方、もしくは「愛すべきダメ人間」達よ、是非。

『くるみパンの本棚』はじめました


二足三文で売るくらいなら…

今まで僕は読み終えた本を、中古本屋さんに毎回「こんなに安いのか…」とぶつぶつ愚痴をこぼしながらも、売ってしまっていた。

まあ、その微々たるお金を、また本を買う資金として活用していたし、それはそれで良かったのだけど、何というか、どうせ二足三文で買い取られるくらいなら、もし欲しい人がいれば無料でも直接あげるほうがいいよなぁ、なんて考えたりしていて。

とは言え、周りに特に読書好きの知り合いはいないし、欲しい人を探したり、募集したりってのも面倒だし…

と、重い腰がなかなか上がらずにいたのだけど、何となくの思いつきというか気まぐれの勢いで、「BACE」というECプラットフォームを利用して、本屋風の自分の本棚を作ってみることにした。

メルカリやヤフオクでもよかったのだけど、何か自分の本屋っぽいのを作りたかったので「BACE」でやることに。


どんな本屋か

基本的には、あくまで「僕が読むために本屋で購入した本」を読後に置いておく本棚という形で、もし欲しい人がいたら送料のみでお送りしますよという本屋さんである。

営利目的は全く無く(古物商いらないよね)、これが本屋と言えるのかはあやしいところだが…。

出版業界や中古書店のことを考えても、適切な値段で販売するのが本当は正しいのかもしれないが、僕としては家族や友達に譲るような感覚であるし、気に入っている本が他の人の手に渡ったら、また本屋(本物の)で新たに購入して貢献はするつもりである。

だから、「本を買ってプレゼントする」という感じに近いかもしれない。僕が読んでからだからどうしても中古になっちゃうんだけど。笑。

なんでこんなことをするのか、いまいち自分でも理解していないが、さっきも書いた通り完全に思いつきと勢いである。冷めないうちに。

あ、ただね、いわゆるせどらーに買われるのはイヤなんだよねぇ。出来れば本当に読みたいなと思っている人に届けたいんだけど…。

まあ、とりあえず始めてみる。値段設定なども含めもし何か不都合や誤ちに気付いたら…その時はまた考えるということで。

というか、何かあったら指摘していただけるとありがたいです。

さてと。まだ全然置いてないんだけど…

ぼちぼち『くるみパンの本棚』、開店。

↓ ↓ ↓

『くるみパンの本棚』

美しくて哀しくて愛くるしいおじさんのお話/『ひとさらい』ジュール・シュペルヴィエル

フランス文学
ジュール・シュペルヴィエル
『ひとさらい』


ひとつ屋根の下、自分の隣の部屋には非常に魅力的な血のつながりのないわが娘が鍵をかけずに眠りにつこうとしている。

それがどういう意味か、皆さん、おわかりになりますね? -ジュール・シュペルヴィエル『ひとさらい』(光文社古典新訳文庫)

見え見えな僕らの欲望

女性と違い、男性が「魅力を感じる異性の年齢」というのは、統計的に見て、人生のある時期からほぼ変わらない。まあ要するに大抵のおじさんはロリコンだってことだ。いやちょっと言い過ぎかもしれないが、でもついつい若い女性の方へ目線が向いてしまうってこと、あるでしょう。…ほら否めない。

しかし、おじさんはそれを必死に隠す。隠そうとする。関心ないよ、を装うのである。だが、バレバレなのだ。何度か妻に指摘された僕がいうのだから間違いない。笑。

あなたそれ、見え見えですよ。

キモい僕らの欲望

おじさんは常に葛藤している。横目でチラッと見てしまうから怪しまれるのかもしれないといって堂々と見たらそれはそれで下品であるし、かといって完全に無関心でいられるかと言ったらそれは到底無理なのである。じゃあどうしたらいいというのか。

世のおじさんたちは皆このように必死で悩んでいる。どんだけカッコいいこと言ったって、いくら仕事が出来る人だって、シュッとした身なりでお洒落にしてたって、みなそうなのである。本当に必死なのだ。なんかね、そういうとこに愛くるさを感じてくれるひとがいてもいいと思うんだけど、多分キモいと言われて終わりだろう。

シンパシーと擁護

『ひとさらい』のビグア大佐をキモいと感じないのは、それが純粋な愛だからなのか。単にビグア大佐自身が絶対的な善人だからなのか。違う。ただ同じおじさんとしてシンパシーを感じて、彼を擁護しているだけであった。

だから僕は思った。このジュール・シュペルヴィエルの『ひとさらい』という長編小説を是非世のおじさんたちに読んでほしいと。

欲望と理性の間。シュペルヴィエル的、詩と小説の間の美しくて哀しくて愛くるしいおじさんのお話。

(あくまで僕の偏見による)

となりの移民/『西への出口』モーシン・ハミッド

西への出口 (新潮クレスト・ブックス)

西への出口 (新潮クレスト・ブックス)


書き出しがこんな感じ。

難民で膨れ上がってはいるが、おおむね平穏な、少なくともあからさまに戦争にはなっていない街で、若い男が教室で若い女を見かけ、だが彼女に話しかけることはしなかった。 -モーシン・ハミッド『西への出口』(新潮クレストブックス)

おおむね平穏で、あからさまな戦争にはなっていない。ここではひとつの街を指しているけど、これはこの世界全体を言い表す、絶妙なアイロニーだと思う。

争いごとって常に自分の身の回り、すくそばにある。同じ国の生まれだからと言っても一人として同じ人間はいなくて、そんな他人同士の心には少なからず壁があり隔たりがあるもので、ほんの少しの違いで相手の意見や考えをなかなか受け入れられなかったりもする。

もし生まれ育った国が違うとなれば、それが大きくなるのは当然といえば当然かもしれない。様々な国の文化や習慣、宗教なんかにオープンでいたいと思っていたとしてもなかなかね…。

イスラム教を知る

世界中には色んな宗教があるけど、「イスラム教」に対してはみんなどんなイメージを持ってるんだろうか。9.11、パリ同時多発テロイスラム国、アルカイダ。そこだけ見れば恐ろしい暴力的な宗教のようにも感じてしまうかもしれない。

しかしそれは明らかに「偏見」である。

世界の人口の4分の1ほどを占めるイスラム教徒の全てが、当たり前だがそのような過激な人たちばかりなわけではない。どのような宗教なのかを知らずに先入観だけで拒絶するのはどうなのか。どちらが暴力的と言えるのか。

とりあえず知らなくてはいけないよなぁと思ったのでこんな本を読んでみる↓

となりのイスラム 世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代

となりのイスラム 世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代

  • 作者:内藤正典
  • 発売日: 2016/07/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

これ、すごく分かりやすくてよかった。「イスラム教」が身近に感じられたし、少しは理解に近づいたかなと思う。学ぶところも非常に多かった。おすすめ。

移民は近くに

さて、モーシン・ハミッドの出身国パキスタンもほぼイスラム教徒の国である。彼の作品『西への出口』はそんな、おそらく中東のイスラム圏のある街(明記されてはいない)から内戦の戦禍を逃れ西へ西へと「どこでもドア」的な扉を使って移動していく男女の物語である。正確には「どこでも」ではなく決められた場所へ行く扉だけどね。

「移民」はこの小説のテーマのひとつではあるけど、とくに深刻に描かれているわけではない。確かに辛い環境ではあっても、思いのほか普通に生活している様子が描かれ、とても重苦しくて読むのが辛い、という雰囲気ではない。

何というか、自分の中での「移民」に対するイメージも偏っちゃってるんだろうなと思う。「移民」と「原住民」という問題の歴史は深いし、それを知ることは大事だけども、何よりまずそこの線引きをなるべく無くそうとすることが大切なのではないか。

さっきの本のタイトルをお借りすれば、まさに「となりのイスラム」、「となりの移民」という感覚。『西への出口』という小説にはその感覚があるんじゃないかなと思う。

移民のことだけじゃなく、人種差別、男女差別など様々な線引きを取り払おうよとハミッドはこの小説で訴えているのかもしれない。サイードとナディアの生きかたや思想、心の変化、他者との関わりかたにそれを感じる。

穏やかに

それにしても、ハミッドの、メタファーとアイロニーが共にフワフワ漂うような文体が非常に好みである。最後にちょっと引用させていただいてシメ。

それは破滅的ではなく、変化であり、軋轢は生じたが終末ではなく、人生は続いていき、人々はやるべきことや目指す生きかたやともに生きる人々を見つけ、理にかなっていて望ましい未来は、それまで想像もつかなかったが、いまでは想像できるようになって姿を現しはじめ、それによって安堵にも似た空気がもたらされていた。 -モーシン・ハミッド『西への出口』(新潮クレストブックス)

どんな人にも「ホッとできる安らぎの場所」が必要なのだよ。

争いが無くなるなんてことはないだろうけど、もう少し穏やかな世界になるといいなあ、とは思う。

その点で、イスラム教徒に学ぶことは非常に多いと僕は考えている。

ハミッドもっと読みたいなと思ったけど、もうひとつ邦訳されているコッチは絶版…

コウモリの見た夢

コウモリの見た夢

まあいつか。

DJと書評ブログの類似と偽善


このご時世、やはり僕らの心の救いは小説と音楽である。…てまあそこは人それぞれだが、独りでも楽しめる何かがあるというのは思いの外、生を支えてくれる。

エゴイズム

しかし、この世界で本当に独りぼっちになってしまった時に、それらを全く同じように楽しめるのかね?と聞かれたら、正直なところはっきりハイとは言えない。

結局、自分という存在を証明してくれるのは他者なのである。小説にしろ音楽にしろ、それについて話すときそれらは自分自身であって、好きな小説や音楽を誰かに教えたくなるのは、自分を認めて欲しいからなのだろうと思う。

書評的なブログを書き、DJもする僕は、つまりエゴイズムの塊である。まあまあいい歳して自分に気付いて欲しくてしょうがないのだ。まあそれでいいのかもしれないが…。

偽善に抗う

DJと書評というのはよく似ていて、どちらも「こういう音楽または本があるんだよー」と紹介するのが主な役割である。

しかし、伝える相手は、音楽好きでクラブ慣れした人からろくに音楽を聴かないただの酒好き女好き、活字中毒の人から全く本を読まない人まで多種多様である。そんな中で僕が自分を見失わずに表現するのははっきり言って難しい。

基本的にはただ自分が好きな音楽をかけ、好きな小説について書きたいのだけれども、それでは聴き手読み手に納得されないような気がしてしまって、なんとなく皆が好きそうなものや「これかければ盛り上がる」みたいなものもミックスしてしまう。周りを気にしてしまうのである。

つまり僕は『赤と黒』のジュリアン・ソレルのように偽善を身にまとった野心家なのだ(才智&美貌はない)。知性のない野心家が自分を見失うのは必然である。

赤と黒〈上〉 (岩波文庫)

赤と黒〈上〉 (岩波文庫)

赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

なんだかね、うだうだ言ってないでとにかく好きなことをやってればいいんだろうけどね。DJにしろ書評にしろ、「ああこの人本当に好きなんだなぁ」と感じるとこちらの心と身体も自然に動く。

僕のアイデンティティに組み込まれた「偽善」はなかなか根強く、意志の力で変えるのは難しいなと感じているけども、少しずつでもナチュラルに「好き」を表現できるようになりたい。

DJも書評も、技術なんかいらない。ただ音楽を、その小説を「好き」であれ。

…いや、ごめんなさい、多少の技術は必要ですね。

好きに従順に

まあとにかく何が言いたいかというと、僕の人生にとって「音楽と小説」ってやつが非常に重要な存在なんだってことです。独りでも楽しめて、かつ他者との繋がりを感じられるもの。

創造主たちに感謝しつつ、これからも好きな音楽を聴き、好きな小説を読もうと思う。

自分の「好き」に従順に。

怒りという自由『フィンケルスティーン5』in『フライデー・ブラック』ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー

アメリカ文学
ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー
『フライデー・ブラック』(2018)


僕は、ブラックミュージックが好きだ。あの、気持ちいいほどの感情の爆発と力強く腰にくる音楽。しかし、そんな彼ら黒人の中には、「未だに」こんな風に感情を抑え込まざるを得ず普段の生活を送っている人たちがいる。

腹が立ったら微笑む。叫びたい時には囁く。これがブラックネスの基本だ。 -ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フィンケルスティーン5』

「ブラックネス」という言葉にどちらかと言えばポジティブ(クール)なイメージを持つ僕にとって、そんな彼らの姿は出来れば想像したくはないというのが正直なところだが、しかしこれは紛れもない事実なのである。

まあ確かにそういった背景があるからこそ、彼らのあのパワフルな音楽が生まれるというのもあるんだけどね…。でもね。やっぱりなんだか悔しい。

なくならない人種差別

今も昔も、世界中様々なところに差別は存在するが、アメリカでの黒人に対する人種差別も本当に根強い。奴隷制度から南北戦争、ブラックパワー。最近では「ブラック・ライヴズ・マター」という社会運動が起こっている。だが差別は無くならない。怒りを感じずにはいられない。

ディアンジェロも歌う。  

All we wanted was a chance to talk.
'Stead we only get outlined in chalk.
「欲しかったのは話し合う機会だけだった。 代わりに手に入れたのはチョークで引かれた死体の後」
-D'angelo『The charade』

無抵抗な人間を銃で撃っても無罪になる警官もいる。

自分の中の差別心

しかし、そうやって「差別」を批判するのは容易いが、自分の中に、気づかないでいる無意識的な「差別」の心は絶対にないと言えるんだろうか。「偏見」を誰もが持っているように、もしかしたら何かに対する差別的な感情も知らず抱いているのではないか。

多分あるのだ。あるからこそ差別を批判するのだろう。認めなくてはいけない。認めないことには、差別は差別を呼ぶ。

「ブラック・ライヴズ・マター」に対する「オール・ライヴズ・マター」「ブルー・ライヴズ・マター」。反発に対する反発。やられたらやり返す。

この怒りに終わりはあるのだろうか?
-ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フィンケルスティーン5』

ないのかもしれないが…。

彼らの叫びを聞け

「どうすりゃいいんだよ!」と叫んだ『フィンケルスティーン5』の主人公エマニュエル。その声がもし多くの人に届けば、もしかしたらその怒りは終わりに近づくかもしれない。少しでも。

このブレニヤーの短編『フィンケルスティーン5』が出来るだけたくさんの人に届くことを願う。真実はフィクションの中にある。

他の短編も良かったのでまた後で何かしら。

『くるみパンの本棚』

読んだ本をストックしておく本屋さん的本棚。

欲しい方、送料分(280円)だけいただければ、お送りいたします↓

『くるみパンの本棚』

「風呂読のススメ」お風呂で読書するという至福の時間に起こる悲劇の回避

あぁまたやってしまった…。角が濡れてしまった文庫本を見つめ僕は嘆く。

 


読書好きな人は誰でも、お気に入りの「本を読む場所」があるのではないかと思うが、僕の場合それは「お風呂」である。今に始まったことではなく、間断はあるが多分中学の頃からの癖のようなもので、なかなかやめることができない。今は小説ばかりだが、昔は漫画も雑誌もなんでも持ち込んで読んでいた。そんな風呂読中毒者である。

そんな風呂読人間が世の中にどれくらい存在するのかはわからないが、もし経験がないという人がいたら是非ともお勧めしたい。誰にも邪魔されないあの密閉された空間と、脳への血の巡りを良くしてくれる「お風呂」は、本当に読書には最適だと僕は思っている。これ至福なり。

しかし、やはりどんな事も一長一短、風呂読にも欠点はある。僕が経験したことで言えば、それは「のぼせ」と「風呂ぽちゃ」である。

のぼせ

「のぼせ」は、これはその名の通り完全に読書に熱中しすぎてのぼせてしまうことである。基本的に僕は「なるべくぬるめのお湯でゆっくり」というスタイルではあるが、それでもやはりあんまり長く浸かっているとのぼせてしまうのである。…まあそりゃそうだ。

だから、時間は程々にしないといけない。体質やその時の体調などを考えて、出来ればタイマーなどで管理するといいのだろうが、僕は使ったことはない。なんせ、めんどくさがりで楽観主義者のダメ人間である。

皆さんはそんな人間にならないためにも是非時間はしっかり管理しつつ、「のぼせ」を防いで風呂読していただきたい。

風呂ぽちゃ

次に「風呂ぽちゃ」だが、まあこれもそのまま、読んでいた本を浴槽のお湯の中へ「ぽちゃ」と落としてしまうことである。これは、ページをめぐる時などに手を滑らせてという可能性もなくはないが、大抵の場合の原因は居眠りである。

コクリときた瞬間にポチャリ。ハッ、と気づいた時には既にその本は濡れてしまっている。そして、この話の冒頭のように嘆き悲しむのである。

…そう、まさに昨夜、それは現実に起こった。というかわかっていた。ちょっと疲れがたまっていたし、ここ2,3日その前兆があったのだ。でも、そういう参っているときこそ「お風呂で本を読む幸福な時間」が僕には必要なのだが…。

しかし、記憶が正しければこれで4回目。学習能力は皆無。まあとにかく疲労がたまっているときなどは、風呂読は控えるべきである。眠りさえしなければ、まず「風呂ぽちゃ」は防げるだろうと思う。

ある程度余力のある時の「風呂読」で「風呂ぽちゃ」は防ごう。

風呂読は至福

とりあえず欠点を2つ挙げてみたが、他にも欠点はあるかもしれない(紙はそもそも湿気に弱いとか←致命的か)。しかし、大体この2つを回避すれば「風呂読」にはもう良いことしかないと僕は信じているし、やめるつもりは毛頭ない。

その利点は…とくに書かないのでこれは是非体験して感じてほしい。

人それぞれ自分なりの「読書を楽しむ場所」があって、その聖域をどうこういうつもりはないが、是非一度「お風呂で読書」を経験していただきたい。その心地よい時間は何ものにも変えられない至福の読書時間となるだろう。