-ささやかな胡桃パン-

『海外文学』と日々のたわいもないノート

DJと書評ブログの類似と偽善


このご時世、やはり僕らの心の救いは小説と音楽である。…てまあそこは人それぞれだが、独りでも楽しめる何かがあるというのは思いの外、生を支えてくれる。

エゴイズム

しかし、この世界で本当に独りぼっちになってしまった時に、それらを全く同じように楽しめるのかね?と聞かれたら、正直なところはっきりハイとは言えない。

結局、自分という存在を証明してくれるのは他者なのである。小説にしろ音楽にしろ、それについて話すときそれらは自分自身であって、好きな小説や音楽を誰かに教えたくなるのは、自分を認めて欲しいからなのだろうと思う。

書評的なブログを書き、DJもする僕は、つまりエゴイズムの塊である。まあまあいい歳して自分に気付いて欲しくてしょうがないのだ。まあそれでいいのかもしれないが…。

偽善に抗う

DJと書評というのはよく似ていて、どちらも「こういう音楽または本があるんだよー」と紹介するのが主な役割である。

しかし、伝える相手は、音楽好きでクラブ慣れした人からろくに音楽を聴かないただの酒好き女好き、活字中毒の人から全く本を読まない人まで多種多様である。そんな中で僕が自分を見失わずに表現するのははっきり言って難しい。

基本的にはただ自分が好きな音楽をかけ、好きな小説について書きたいのだけれども、それでは聴き手読み手に納得されないような気がしてしまって、なんとなく皆が好きそうなものや「これかければ盛り上がる」みたいなものもミックスしてしまう。周りを気にしてしまうのである。

つまり僕は『赤と黒』のジュリアン・ソレルのように偽善を身にまとった野心家なのだ(才智&美貌はない)。知性のない野心家が自分を見失うのは必然である。

赤と黒〈上〉 (岩波文庫)

赤と黒〈上〉 (岩波文庫)

赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

なんだかね、うだうだ言ってないでとにかく好きなことをやってればいいんだろうけどね。DJにしろ書評にしろ、「ああこの人本当に好きなんだなぁ」と感じるとこちらの心と身体も自然に動く。

僕のアイデンティティに組み込まれた「偽善」はなかなか根強く、意志の力で変えるのは難しいなと感じているけども、少しずつでもナチュラルに「好き」を表現できるようになりたい。

DJも書評も、技術なんかいらない。ただ音楽を、その小説を「好き」であれ。

…いや、ごめんなさい、多少の技術は必要ですね。

好きに従順に

まあとにかく何が言いたいかというと、僕の人生にとって「音楽と小説」ってやつが非常に重要な存在なんだってことです。独りでも楽しめて、かつ他者との繋がりを感じられるもの。

創造主たちに感謝しつつ、これからも好きな音楽を聴き、好きな小説を読もうと思う。

自分の「好き」に従順に。

怒りという自由『フィンケルスティーン5』in『フライデー・ブラック』ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー

アメリカ文学
ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー
『フライデー・ブラック』(2018)


僕は、ブラックミュージックが好きだ。あの、気持ちいいほどの感情の爆発と力強く腰にくる音楽。しかし、そんな彼ら黒人の中には、「未だに」こんな風に感情を抑え込まざるを得ず普段の生活を送っている人たちがいる。

腹が立ったら微笑む。叫びたい時には囁く。これがブラックネスの基本だ。 -ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フィンケルスティーン5』

「ブラックネス」という言葉にどちらかと言えばポジティブ(クール)なイメージを持つ僕にとって、そんな彼らの姿は出来れば想像したくはないというのが正直なところだが、しかしこれは紛れもない事実なのである。

まあ確かにそういった背景があるからこそ、彼らのあのパワフルな音楽が生まれるというのもあるんだけどね…。でもね。やっぱりなんだか悔しい。

なくならない人種差別

今も昔も、世界中様々なところに差別は存在するが、アメリカでの黒人に対する人種差別も本当に根強い。奴隷制度から南北戦争、ブラックパワー。最近では「ブラック・ライヴズ・マター」という社会運動が起こっている。だが差別は無くならない。怒りを感じずにはいられない。

ディアンジェロも歌う。  

All we wanted was a chance to talk.
'Stead we only get outlined in chalk.
「欲しかったのは話し合う機会だけだった。 代わりに手に入れたのはチョークで引かれた死体の後」
-D'angelo『The charade』

無抵抗な人間を銃で撃っても無罪になる警官もいる。

自分の中の差別心

しかし、そうやって「差別」を批判するのは容易いが、自分の中に、気づかないでいる無意識的な「差別」の心は絶対にないと言えるんだろうか。「偏見」を誰もが持っているように、もしかしたら何かに対する差別的な感情も知らず抱いているのではないか。

多分あるのだ。あるからこそ差別を批判するのだろう。認めなくてはいけない。認めないことには、差別は差別を呼ぶ。

「ブラック・ライヴズ・マター」に対する「オール・ライヴズ・マター」「ブルー・ライヴズ・マター」。反発に対する反発。やられたらやり返す。

この怒りに終わりはあるのだろうか?
-ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フィンケルスティーン5』

ないのかもしれないが…。

彼らの叫びを聞け

「どうすりゃいいんだよ!」と叫んだ『フィンケルスティーン5』の主人公エマニュエル。その声がもし多くの人に届けば、もしかしたらその怒りは終わりに近づくかもしれない。少しでも。

このブレニヤーの短編『フィンケルスティーン5』が出来るだけたくさんの人に届くことを願う。真実はフィクションの中にある。

他の短編も良かったのでまた後で何かしら。

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「風呂読のススメ」お風呂で読書するという至福の時間に起こる悲劇の回避

あぁまたやってしまった…。角が濡れてしまった文庫本を見つめ僕は嘆く。

 


読書好きな人は誰でも、お気に入りの「本を読む場所」があるのではないかと思うが、僕の場合それは「お風呂」である。今に始まったことではなく、間断はあるが多分中学の頃からの癖のようなもので、なかなかやめることができない。今は小説ばかりだが、昔は漫画も雑誌もなんでも持ち込んで読んでいた。そんな風呂読中毒者である。

そんな風呂読人間が世の中にどれくらい存在するのかはわからないが、もし経験がないという人がいたら是非ともお勧めしたい。誰にも邪魔されないあの密閉された空間と、脳への血の巡りを良くしてくれる「お風呂」は、本当に読書には最適だと僕は思っている。これ至福なり。

しかし、やはりどんな事も一長一短、風呂読にも欠点はある。僕が経験したことで言えば、それは「のぼせ」と「風呂ぽちゃ」である。

のぼせ

「のぼせ」は、これはその名の通り完全に読書に熱中しすぎてのぼせてしまうことである。基本的に僕は「なるべくぬるめのお湯でゆっくり」というスタイルではあるが、それでもやはりあんまり長く浸かっているとのぼせてしまうのである。…まあそりゃそうだ。

だから、時間は程々にしないといけない。体質やその時の体調などを考えて、出来ればタイマーなどで管理するといいのだろうが、僕は使ったことはない。なんせ、めんどくさがりで楽観主義者のダメ人間である。

皆さんはそんな人間にならないためにも是非時間はしっかり管理しつつ、「のぼせ」を防いで風呂読していただきたい。

風呂ぽちゃ

次に「風呂ぽちゃ」だが、まあこれもそのまま、読んでいた本を浴槽のお湯の中へ「ぽちゃ」と落としてしまうことである。これは、ページをめぐる時などに手を滑らせてという可能性もなくはないが、大抵の場合の原因は居眠りである。

コクリときた瞬間にポチャリ。ハッ、と気づいた時には既にその本は濡れてしまっている。そして、この話の冒頭のように嘆き悲しむのである。

…そう、まさに昨夜、それは現実に起こった。というかわかっていた。ちょっと疲れがたまっていたし、ここ2,3日その前兆があったのだ。でも、そういう参っているときこそ「お風呂で本を読む幸福な時間」が僕には必要なのだが…。

しかし、記憶が正しければこれで4回目。学習能力は皆無。まあとにかく疲労がたまっているときなどは、風呂読は控えるべきである。眠りさえしなければ、まず「風呂ぽちゃ」は防げるだろうと思う。

ある程度余力のある時の「風呂読」で「風呂ぽちゃ」は防ごう。

風呂読は至福

とりあえず欠点を2つ挙げてみたが、他にも欠点はあるかもしれない(紙はそもそも湿気に弱いとか←致命的か)。しかし、大体この2つを回避すれば「風呂読」にはもう良いことしかないと僕は信じているし、やめるつもりは毛頭ない。

その利点は…とくに書かないのでこれは是非体験して感じてほしい。

人それぞれ自分なりの「読書を楽しむ場所」があって、その聖域をどうこういうつもりはないが、是非一度「お風呂で読書」を経験していただきたい。その心地よい時間は何ものにも変えられない至福の読書時間となるだろう。

オヤジにだってあった青春、そして初恋/『はつ恋』イワン・ツルゲーネフ

ロシア文学
イワン・ツルゲーネフ Ивáн Тургèнев
『はつ恋』(1860)

はつ恋 (新潮文庫)

はつ恋 (新潮文庫)


好きな女の子が急に転校してしまって悲しみに暮れた、なんていう思い出がこんな僕にでも一応あったりする。確か小学2年生の頃だったように思うけども、定かではない。それに…顔は何となく思い出せるんだけども…うーん…何て名前だったかは覚えていない。

しかし、その時の感情は意外と残っているもので、思い出すとなんとなーく切ない気持ちになる。とは言え、記憶なんてのはちっとも当てにならないし、そもそもこれが「恋」と言えるのかも危うい。

まあ何にしろ(なげやり)「初恋」なんてのは、その時は非常に情熱的ではあっても、いずれ大抵このように記憶の片隅にひっそりと佇む程度のものになる(人によるか)。

ただ、たまにはその「初恋」の思い出を記憶の奥底から引っぱりだして感傷に浸るのもいいかもしれない。ツルゲーネフの『はつ恋』でも読んでさ。

話すのが苦手だから書く

なんて、顔が見えないから臆面もなくこんなことを書けるわけだけど、『はつ恋』の主人公ウラジーミル・ペトローヴィチも、話すのは苦手だからということで、その初恋のエピソードを手帳に書いてから皆(なんと男3人で初恋の話をしている)に読んで聞かせる。つまりペトローヴィチが手帳に書いた物語を僕ら読者も『はつ恋』の中で読むわけである。

「手帳」というのがなんか、いい。

わたしは話が不得手なほうですから、無味乾燥なあっけない話になるか、それともだらしない調子はずれな話になるか、そのどっちかです。もし宜しかったら、思い浮ぶだけのことをすっかり手帳に書いて、読んでお聞かせしようじゃありませんか。
—『はつ恋』(新潮文庫)

「話す」より「書く」を選びとるのは、言葉に対して冷静にかつ真剣に立ち向かいたいからである。話すのが苦手(自分)だという人は、きっと言葉を大切にする人なのだろう。…と、横道にそれつつポジティブシンキングしたところで、さて。

ああ、青春よ!青春よ!

「初恋」の思い出というのは人それぞれ印象が違うだろうが、ペトローヴィチのそれはなかなか衝撃的であった。なんと、彼が恋した相手がまさかの……という。それを知ってしまったときのショックは非常に大きかっただろう。その衝撃が、ペトローヴィチのその後の人生にどれほど影響を与えただろうか…。

青春時代という貴重な期間をどう過ごしたかというのは、その人の人格形成に深く関わるような気がする。その青春時代に多くが訪れる「初恋」はとりわけ心をかき乱すし、自己と他者の関係を非常に深く考えるキッカケでもある。

もはや青春と「初恋」は同義であり、初恋こそが人格を形成すると言っても過言ではないかもしれない。

『はつ恋』という作品は、ペトローヴィチというよりも、多分イワン・ツルゲーネフその人である。

オヤジだって…

しかし、オヤジ3人で初恋の話とは…。まあ、それが逆に哀愁を誘うのかもしれない。オヤジだって誰だってみな青春時代を、初恋を経験して今があるのである。

どうか許してほしい(誰に)。


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はつ恋

はつ恋

終わりは始まり。

NHKのラジオ番組『すっぴん』が終わる。

今週(2020.3.9〜13)が最後の週ということで、現場で段取りをしつつ朝から聴き始めるが国会中継のため25分で終了…。ちぇっ、と思ったがまあしょうがない。月曜担当サンキュータツオ氏呆気ない最後でしたが、お疲れ様でした。

『すっぴん』は、月曜から金曜まで各曜日に担当パーソナリティがいて、どの曜日も個性的で面白かったんだけども、特に僕は金曜日が好きでほぼ毎回聴いていた。金曜担当パーソナリティは作家の高橋源一郎氏。

番組の中で、様々な本を取り上げつつ、現代社会の問題について自身の考えを述べられる「源ちゃんの現代国語」というコーナーがあり、いつも楽しく聴いていたが、つい先週の放送(2020.3.6)で取り上げた本がケストナーの『飛ぶ教室であった。

www.sasayakana-kurumipan.com

「源ちゃん」が語る『飛ぶ教室』のあらすじや、とあるシーンやセリフの朗読に、仕事中にもかかわらず泣く。うっ…。阿保。ひとりでよかった…。しかし、それほどグッとくる作品だったなと、再実感したわけでありますが。

いやホント素直に優しくなれる小説。『飛ぶ教室」は児童文学ではあるが、是非とも「大人」に読んでほしいなと思う作品である。さて。

『すっぴん』が終わってしまうということで、「源ちゃんの声がラジオで聴けなくなるのかぁ」と寂しく思っていたらなんと。新しく番組を始めるらしいという噂。というかNHKの番組編成計画の中にあったので、これはホントっぽい。

いやぁ嬉しい。ほんと嬉しい。楽しみだなぁ。

そしてさらに、その番組タイトルがなんと…

高橋源一郎飛ぶ教室だそうな。

こりゃもはや期待しかない。この番組を聴いて、正義さんや禁煙さんのように子供を守れる大人が沢山いる社会になるといいなと願う。

…人のこと言う前に自分か。

包み隠された何か/『ヌメロ・ゼロ』ウンベルト・エーコ

イタリア文学
ウンベルト・エーコ Umberto Eco
『ヌメロ・ゼロ』(2015)

ヌメロ・ゼロ (河出文庫 エ 3-1)

ヌメロ・ゼロ (河出文庫 エ 3-1)

エーコの遺作。


エーコの陰謀

人間の記憶というものが不完全であるならば、その人間によって語り継がれる「歴史」もまた不完全なものである。僕らが学生時代の授業で学んだ「歴史」は、いとも簡単に覆され、さらに新説というのが次々と現れる。

もはや信じられるものは何もないのではないか、と思うほどに嘘にまみれたこの世界にあって、「陰謀論」なんてものに心惹かれるのは当然と言えば当然なのかもしれない。

結局のところ、真実かどうかを知ることよりも「もしかしたら本当はこうかもしれない」と疑い、考えを巡らせることに意味(もしくは快楽)があるような気もするし。

おれたちは偽りに囲まれて生きている。嘘をつかれるのだと知ったら、疑いながら生きなければならない。おれは疑う。いつだって疑う。
『ヌメロ・ゼロ』(河出文庫) p50

ウンベルト・エーコの『ヌメロ・ゼロ』は、真実を包み隠し僕らを欺く誰かの「陰謀」や、いかにして記憶を改ざんさせられているのかというようなことを知らせる、エーコの「陰謀」である。

自分は自分で

そういえば、ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』は「自分自身で記憶を都合のいいように改ざんしている」というような話だったけれど、この『ヌメロ・ゼロ』は、「誰かの都合のいいように記憶を改ざんされている」という話で対称的だ。

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しかしその違いはあれど、どちらもやはり「自分が生きる世界(自己の&他者の)に注意深く生きよ」と言っているような気がする。なんだかんだ、自分は自分で救い出さなければならないということか。

海外文学で学ぶ

小説という虚構の中に史実の紛れ込んだこの『ヌメロ・ゼロ』は、いかにその史実も疑わしいかということも伝えているが、何より史実(一般的にそう思われているもの)を知るキッカケにもなる。

エーコは知識が豊富すぎて、調べ物をしながらでないとなかなかついていけないんだけども、しかしそれだけ勉強にはなるのである。まあ、エーコに限らず、海外文学を読むということはその国の歴史や文化を学ぶことでもあるわけで。

知らないことが沢山あるというのは、これからまだまだ学ぶことができるということだ。何かを「知ること」は悲しみであり悦びである。この先どうなるかはわからないけども、なるべく「知りたい欲」には忠実に、これからも沢山海外文学を読みたいと思っている。

その記憶、本当か?/『終わりの感覚』ジュリアン・バーンズ

イギリス文学
ジュリアン・バーンズ Julian Barnes
『終わりの感覚』(2011)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)


単なる人生についての物語

最近どうも物忘れがひどくて、このまま何もかもが思い出せなくなってしまうのではないかと不安に感じることがある。歳かな。妻も友人もみな記憶から消え去り、もはや自分が誰なのかさえわからなくなる、なんて事を想像すると非常に恐ろしい。いや本当に恐ろしい。  

人は記憶で造られている。記憶がなくなれば、その人はその人ではなくなる。それほど記憶というのは重要であるにもかかわらず、人はどれほど記憶を「改ざん」しているだろうか。どれほどの「自己欺瞞的記憶」にすがっているだろうか。勿論皆が皆というわけではないだろうけれど。「郷愁」「追憶」「ノスタルジア」というとなんとなく聞こえはいいような気がするが、そうやって自分で勝手に美化した過去にすがりついて生きる僕みたいなオジさんは特に見苦しい。

「昔は良かったね」といつも口にしながら生きていくのは本当に嫌だと思って生きていたはずなのに、気づけばそうなってしまっているのではないか。ジュリアンバーンズ『終わりの感覚』を読んでいて、そんな事を考えさせられた。

私たちは自分の人生を頻繁に語る。語るたび、あそこを手直しし、ここを飾り、そこをこっそり端折る。人生が長引くにつれ、私が語る「人生」に難癖をつける人は周囲に減り、「人生」が実は人生ではなく、単に人生についての私の物語にすぎないことが忘れられていく。それは他人にも語るが、主として自分自身に語る物語だ。
『終わりの感覚』新潮クレストブックスp117

なにもわかっていない情けなさ

他人と共有する記憶というのもある。しかし共有とはいっても、互いに持つその記憶の印象は必ずといっていいほど異なるはずだ。一方にはいい思い出でも、もう一方にとっては不快であったり。その可能性を考えずにいると多分痛い目にあう。『終わりの感覚』の語り手アントニーのように「あなたはなにもわかっていない」と言われてしまうかもしれない。というか、このセリフは男なら一度は言われたことがあるのではないかと思わなくもない。笑。  

他人の心にも注意深く生きたいなあ、とは思っても、やはり自己中心的になりがちなのが人間(みな巻き込む)であって、なかなかそれに気づかず生きてしまう。しかし、だからこそこのような小説があるのかもしれない。少なくとも僕はこの『終わりの感覚』を読んでハッとさせられ、自分の不甲斐なさを思い知った。

あとはこの記憶をなくしてしまわないようにすることである。

ジュリアン・バーンズ

ジュリアン・バーンズはイギリスの作家。この『終わりの感覚』で候補4度目にしてやっとの「ブッカー賞」受賞。1946年生まれで、僕の好きなポールオースター(アメリカ)とはほぼ同年代である。

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因みにこの『終わりの感覚』は『ベロニカとの記憶』というタイトルで映画化されている。昨日途中まで観て寝ちゃったから、後でまた。

ベロニカとの記憶(字幕版)

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  • 発売日: 2018/09/05
  • メディア: Prime Video

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