ささやかな胡桃パン-海外文学エッセイ

『海外文学』と『読み書き』にまつわるあれこれエッセイ

幻影に人は救われる『幻影の書』ポール・オースター

アメリカ文学
ポール・オースター Paul Auster
『幻影の書』(2002)

幻影の書 (新潮文庫)

幻影の書 (新潮文庫)

結局戻ってくるのはやはりここ。現代アメリカ文学界の最重要人物ポールオースターである。


幻影という名の希望  

「幻影」というのは、ひとつの希望を表す言葉なのではないかと思う。人は何かに、もしくは誰かに頼って生きていくものだけれども、現実に存在しているかのように見えるその「何か」や「誰か」というのは、紛れもなく自分自身が生み出した「幻影」である。勿論それに惑わされることもあるだろうが(本来の意味はこっちかな)、救われることがあるのもまた事実のように思われる。

誰しも深い悲しみに沈み込んでしまうような時はある。しかしそんな絶望の最中にふと訪れる「偶然の出会い」によって、そっと心に植え付けられた希望の種が、生きる目的や道標となる「幻影」へと育ち、人をどん底から救い出してくれるということもあるのだ。

ジンマーが家族を亡くし絶望の淵にあった時、偶然ヘクターのサイレント映画に出会いそれが生き延びる目的となったように、この『幻影の書』が、悲しみの中にある、もしくは孤独を感じている誰かにとっての「救済の書」になることがあるかもしれない。『幻影の書』という小説にはそういった力がある。

この『幻影の書』を読んだのは2度目だけれども、前回にしろ今回にしろ僕は別に落ち込んでいたわけではない。しかしこの小説を読み、ジンマーの悲しみに深く同調することで、彼の「幻影」であるヘクターやアルマによって僕自身がこの先を生きていく希望を与えられたような気にさせられた。

ヘクターやアルマ、そしてジンマーが、僕にとっても「幻影」という希望であるということなのかもしれない。

現実と虚構の不思議な関係  

オースターはいつも、いかに僕らが生きる(生きていると思っている)現実世界が信じられないほどの驚きに溢れているかということを、小説という虚構の世界で描く。つまり「現実は小説よりも奇なり」ということをその「小説」で書いているわけである。矛盾しているような気もするが、実はその矛盾こそがこの世界の真実であって、きっとオースターはその「真の世界の姿」というものを僕らに「物語」を利用して伝えているのではないかと思う。

こういった現実の世界と虚構の世界の不思議な関係の謎を思索するのが、この『幻影の書』を含め、オースターの小説を読む楽しみの一つだと僕は思っている。  

現実とはもろもろの虚構と幻覚から成る無根拠な世界であり、想像したことすべて実現する場なのだ。
『幻影の書』(新潮文庫)p214

奇跡や偶然への期待

そのようにオースターの作品は「思索する楽しみ」を僕らに教えてくれる。しかしそれだけでは勿論なく、そもそも物語自体が非常に魅力的でグイグイ引き込まれ読み進むことを止められない。

これは、さっきも書いた「信じられない驚き」が起きることを文脈から常に予感させられるからで、読者はそれを知りたいがために読み進めるしかないのである。特にこの『幻影の書』はその予感に満ちているように感じている。(まあオースターの他のどの作品も、読むたび「これが一番」と思ってしまうんだけれども。笑)

驚きや奇跡、偶然の運命に期待するという意味で、ポールオースターの小説という虚構を「読むこと」は現実世界を「生きること」と同義であると言ってもいいのかもしれない。

人はみな、不可能なことを信じたがる。奇跡は起こりうる、みんなそう思いたいのだろう。
『幻影の書』(新潮文庫)p10

『幻影の書』は『救済の書』へ  

人はひとりでは生きられない。「誰か」や「何か」という幻影が必要であり、また奇跡や驚きへの期待という生きる目的を与えてくれるものが必要だ。

もし何か悲しい出来事に落ち込んでしまったり、人生に期待できなくなってしまったとき、是非このポールオースターの『幻影の書』を手に取って読んでみてほしい。

きっと「人はみな孤独だが、しかし独りではない」ということを教えてくれるだろう。  

幻影の書 (新潮文庫)

幻影の書 (新潮文庫)

オースター作品の中で、この『幻影の書』は間違いなくベスト3に入るよ(あくまで僕の中で)。

iPhoneとiPadを使ってブログを書く人が増えてほしいと心から願う

こないだからどうも「読む」より「書く」に心が傾斜気味なのでまた番外編。iPhoneでブログを「書くこと」。

iPhoneiPadでブログを、というか何かしらの執筆活動を行なっている人というのは、「PCで書く人」に比べて少ないのだろうか。確かに何かみんなPCでポチポチやってるな、というイメージはあったが、正直今まで特に意識したことはなかった。

  

妙な疎外感  

僕は基本的にiPhone8割iPad2割くらいの使用頻度でブログを書いている。PCは全く使っていない。勿論このブログもそうである。まあ、ブログを始めた当初からiPhoneで書いていたし、別に不便も感じたことはなく、逆にPCに鞍替えしようかなんて考えたこともなかったのである。

しかし、その「PC派」がマジョリティであって、実はiPhoneiPadで文章を書くほうがマイノリティなのではないか、ということが最近妙に気になりだした。

家で書いているときや、一人でいる時(仕事の休憩中の車の中など)はそれほどではないが、いわゆるカフェなど周りに似たようなことをしている人がいるような環境の時に、ふと「あれ?」という違和感というか疎外感のようなものを感じてしまうのだ。外付けのキーボードも使っていないこともあって、その音、「カタカタ」感がなく余計何か雰囲気が違うなと感じるのである。

だが、そんな事を感じる必要は全くなく堂々とiPadで書けばいいし、変なコンプレックスは不要なはずだ。iPadiPhoneで文章を書いてブログをアップすることに全く不便などない(慣れというのもあるかもしれないが)。持ち運びだって楽だしメリットはある。

でもね、そうはいってもマイノリティには変わりなさそうだし、もう少しiPhoneiPadでブログを書く人が増えたらいいなと密かに思ったりして。そうすれば僕も、もう少し気楽にカフェでブログを書けるようになるだろうという、なんとも自分勝手な理由からではあるが。笑。

モス

モス

繭割って蛾になりたい。

iPhoneiPadでブログを書くためのマイフェイバリットアプリ

iPhoneiPadには、文章を書くのに便利なアプリが結構ある。僕が利用している「はてなブログ」にもアプリはあって、最早それだけで十分事足りるのだが、せっかく他にも色々あるので、使ってみたいと思うのが人間の性である。

ということで今まで色々試してきて、その中で一番しっくりきたのが、「type」というアプリで、これは非常にシンプルで無駄がなく、文章を書くというひとつの行為に集中することができる。一応マークダウン式ではあるが、僕はせいぜい見出し(#)と引用(>)くらいしか使わないので、それ以外の記法は特に覚えていないし、ほぼひたすら文章を綴るのみである。

# Type

# Type

  • fromKK
  • 仕事効率化
  • 無料

機能的なところは全く気にしない、というわけではないが、結局のところ単純にそのシンプルな雰囲気が気に入ったというだけで利用している。やっぱり何より見た目が、執筆を楽しむための最重要ファクターである。  

この記事を書いているとこ↓

  

「bear」というこれまた良い見た目のアプリも好きで利用しているが、こっちはどちらかというとブログの下書きを置いておいたり、「メモ帳」として使っている。クマかわいい。

Bear - プライベートメモ

Bear - プライベートメモ

  • Shiny Frog Ltd.
  • 仕事効率化
  • 無料

メモ帳でいうと、「touch memo」という付箋メモアプリも利用していて、こちらはパッと素早く書けて、さらにその付箋をペタペタと好きなようにコラージュしていけるところが気に入っている。

小説を読みながら、ふと頭に湧く言葉をすぐに「touch memo」の付箋に書いて貼り付けていく。読み終える頃には様々な言葉のカオスがひとつの画面に収まっていて、そこから不要なものを消していきながら、最終的に残った言葉たちから得た着想をもとに「type」で文章を書いていくのが、おおかた今の僕のやり方である。

今はオルガ・トカルチュクの『逃亡派』を読んでいる↓

  

が、少々飽きて色々乱読。

逃亡派 (EXLIBRIS)

逃亡派 (EXLIBRIS)

まあ最終的には「はてなブログアプリ」に書いたものをコピペして投稿するわけで、だったら最初からそっちで書けばいいのかもしれないが、さっきも言った通り、楽しく執筆をするにはその環境(ここで言えばアプリの見た目)が重要なのであって、多少の手間は気にしないほうがいいのである。

結局身軽で楽という点  

とこんな風に、iPhoneiPadで文章を書くための環境は十分揃っていて(僕の説明は不十分)特に不自由はない。キーボード入力に慣れているというのなら、外付けのキーボードを買えばいいだけである(でもそうするとなんか違ってくる気もする)。

他にも確かに編集画面が小さいとか色々あると思うが、結局のところ慣れである。使ってみれば段々「あ、全然いいじゃん」ときっとなるに違いないのだ。きっとというか絶対なる。洗&脳。

あーだこーだ書いたが、結局なによりも持ち運びが楽なのが一番。財布も持たずに歩く時代にPC担いでえっちらおっちらカフェにいくなら、iPhoneをポッケにインして手ぶらで行ったらいいのかなと思うのだ。そういう意味で外付けキーボードもいらない。そもそもiPadはポッケに入らないかもしれないが。

また、家でしかブログを書かない、という人にはそういった携帯性は不要と思うかもしれないが、「ベッドに寝転がって」とか「湯船に浸かりながら」文章を書きたいという場合もあるだろう。その要望にiPhoneiPadは答えてくれるはずである(僕はさすがにお風呂では書いたことない)。

とにかく身軽でいるというのは、頭も爽快、何をするにも素早く動けていいものである。

やりたいようにやればいい

「紙の本」とか「手書きの手帳」とかアナログで物質感のあるものが本当は好きなくせに、逆に変に物を持ちたがらないところもあって(めんどくさがり)、どうも矛盾しているような気もしないではないが、まあ人間なんてのはそんなものである(ずるい)。

とまあそのように、人それぞれ好みやクセがあるものだし、結局その人のやりたいようにやればいいだけの話なのだけども。だから別に周りが「PC派」ばかりでも気にしなければいいのだろうが、出来ればもう少しだけでも「iPhoneでブログを書く」仲間が増えてくれたらいいなと心から願っている。

ごめん  

(PCで書いている人がマジョリティというのは、あくまで僕の印象で、実のところどうなのかは特に調べてはいない)


iPhoneiPadで「書評ブログ」を書いたらいいんじゃない。

www.sasayakana-kurumipan.com

『書評ブログ』は気負わずまあとにかく気楽に始めようよ

小説を読んでばかりではいけない。世間ではインプットよりアウトプットを増やせと喧しいので番外編。  

「書評ブログ」について。


スタイルの向き不向き  

書評ブログというのが巷で流行っている。と言うわけでは全くないが、始めてみたいという人はまあまあ居るようで、時折『書評ブログの書き方』といった記事なんかを目にしたりする(僕自身が検索しているからだが笑)。

読んでみると、「おお、なるほど」と思うことが書かれていたりもするが、実際それを実践するかといえば、答えはノーである。しかし、ノーといってもそれは「しない」ではなく「できない」であって、やはりブログ(文章)の書き方は十人十色、向き不向きというものがあるのだと感じる。

じゃあ自分はどういうものが向いているのか、ということをを知りたければ、結局色々書いて試してみるしかない。当たり前かもしれないが、それが一番だと思う。

書評とそうでないもの

最初に「書評ブログ」と書いたが、これは便宜的に「読書をしてそれについて何かしら文章を書くブログ」の全てを勝手に内包させて、そう書いた(この記事ではそういうことにする)。つまり逆に言えば、「書評ではないそういうブログ」があるということで、むしろそっちの方が多いのではないかとも思っている。僕の書いているこのブログも多分そうである。

その違いは何かというと、その本について評するかしないか、というよりその目的にあるような気がする。それは、「読者に紹介するという目的」があるかどうかということである。一概には言えないかもしれないが、概ねそうではないかと思う。さきほど向き不向きを知るために「色々試す」と書いたが、色々というかまず「紹介する目的があるかないか」それぞれで試しに文章を書いてみるといいかもしれない。

簡単に言えば、「他人のため」に書くのか「自分のため」に書くのかを意識するということである。

『書評ブログの書き方』的な記事は、基本的に「紹介する目的」が前提にあって、それを達成するためのロジックを「紹介」しているものが多い。勿論それもやりがいがあって、魅力的ではある。が、やはりそもそもそういうものを「書けない」という人は結構いるのではないか(僕も含め)、という気がする。そういう人は、「他人のため」ではない「自分のため」に書くのが無理もなく自然だし、何より楽しめるのではないかと思うのだ。勿論、「他人のため」に書くことができる人は、それはそれでいいのだし。要は無理をしないことである。

書評はかんたんでいい    

無理をしないということで言うと、「自分のため」だろうが「他人のため」だろうが、「書評ブログ」というのは、なんとなく本の話をしてさえすればいい。

今日は寒かった。さっさと家に帰ってカーヴァーの短編「ささやかだけれど、役にたつこと」を読んで身も心も温まった。おわり。  

ただの日記だが、これでいいのである。レイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど、役にたつこと」が心温まる短編だと言うことが読み手に伝わってさえいる。まあこれだったらTwitterでいいだろうと言われるかもしれないが、その向きはさておき、これくらいなら簡単に書けそうだなと思ってもらえれば幸いである。

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

『書評ブログ』やろうよ  

僕自身、結構長いこと「書評ブログ」を書いてきて(4度ブログを引越した。笑)、いまだに大したことは書けないし、何で書いてるんだろうと悩むこともなくはないが、それでもやめられない楽しみの一つであることには変わりない。勿論これからも続けていくだろう。

もし「書評ブログ」を書きたいと思ったらのなら、とにかく始めてみてほしい。勿論「書評ブログ」に限らずだが。

そもそもの目的が「マネタイズ」だろうが、「日記をつけたい」だろうが、ブログはやはり楽しくなくては続かない。ブログを始めてもなかなか続かずフェードアウトしていく人が多いのは、どこか無理をしてしまうからだろう。まあ別につまらなければ、やめたらいいのだけど、ブログを書き続けることで文章を書く楽しみを知った僕は、せっかく始めたのならもう少し続けて欲しいなと思うし、これから始めようかという人が「ブログってこんなテキトウでもいいんだ」と思えるものを沢山書いていきたいと考えている。

(意外と「他人のため」っぽいの書いた。こうやっていまだにふらふら迷走してるのは内緒。)

凡人は狂人へ憧れる『嵐が丘』エミリー・ブロンテ

イギリス文学
エミリー・ブロンテ Emily Jane Brontë
嵐が丘』(1847)

嵐が丘 (新潮文庫)

嵐が丘 (新潮文庫)


ブロンテ姉妹のひとり、エミリー・ブロンテ唯一の長編小説。この『嵐が丘』は、エドマンド・ブランデン「世界(英米文学の)三大悲劇」やサマセット・モームによる「世界十大小説」のひとつとされている。

理屈じゃない何か

僕は結構淡白な性格なので(自己分析)、復讐に燃えるほどの強い想いを抱いたこと(もしくは抱くほどの体験)はないけども、しかしだからこそなのかヒースクリフのように一途な、というかパラノイア的な愛情というものには、ついつい惹かれてしまう。そうなりたいと言うのではなく、単にその理屈がわからないからなのかなと思う。愛は理屈じゃないよ、と言われたら、はいそれまでよ。

まあ確かに愛だの恋だのに限らず、何かに妄信的に猛進する時には頭より先に身体が動いてしまうもので、あーだこーだと理由を並べ立てたりはしないものだ。『嵐が丘』の中でのヒースクリフの行動にいちいち説明はないが(語り手が本人ではないので当たり前か)、それがいかにあくどい行動で彼がどれだけ酷い人間に見えても、その裏側にあるキャサリンへの強い、もはや狂ってしまうほどの愛情があることを読み手は思い知らされ、彼を心から憎むことはできない。憎むどころか心惹かれ、憧れさえ抱くのである(私的意見)。

恋を知らないエミリー

ブロンテ3姉妹の2番目(正確には5姉妹の4番目らしい)エミリーは、この『嵐が丘』を書き上げた翌年30歳の若さで亡くなっているが、その生涯において恋をしたことは一度もないという。その彼女の、もしかしたらひとつの理想の人物がヒースクリフなのではないか、と思わなくもない。

そう考えるとエミリーの分身はキャサリンということになりそうだけども、キャサリンはキャサリンでも娘の方(親子ともにキャサリン)がそうなんじゃないだろうかと、読みながらそう感じた。ちょっとこれは、何となくの直感で根拠もへったくれもなく、完全なる僕のイメージなのでそこのところ要注意。笑。

しかし、もし本当に恋を経験したことがないとしたら、エミリーは完全なる想像のみでこの小説(の恋愛的な部分)を書いたことになる。にわかには信じられないが、もしそうならば、未体験からこのような愛憎を描くとは、なんとも凄まじい想像力である。まあ想像力が体験を超えるのが小説だと言えるのかもしれないし、そういった作者の想像した物語を読者が体験するのが小説を読む醍醐味でもあるけども。

語り手は最重要

さて、エミリーの想像力はひとまず信用したところで、一方この小説の語り手エレン(正確には本来の語り手ロックウッドに対する語り手)の話はとにかく信用ならない(勿論エレンもエミリーの想像の産物なんだけど)。完全にエレンの偏見と思い込みによって、それぞれの人物について語られていて、その造形はほぼエレンに託されている。しかしそれが面白いところで、その信用できない語りが逆に読み手に想像させる余白を生み出してくれてもいる。

と、なんとなく今書きながら思いついたんだけども、面白い小説って「疑い」を持てる物語なんじゃないか。その「疑い」によってより深みにはまり、思いもしないところへ連れていかれてしまうような。まあ基本的に僕は、ミステリーのフォーマットを利用しながらも解答へはたどり着かず破綻させていく、というような話が好きだったりするからというだけで、結局ただの好みだろうけども。しかし、叙述ミステリー的というかそういう意味で、信用ならない語り手というのは非常に魅力的な存在だなと思ったし、この『嵐が丘』を無意識にそういう読み方をしていたんだなと、今更ながら思っている。

(信用ならない語り手、コロコロ変わる語り手の「疑い」小説といえばラテンアメリカ文学の神フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』が僕の中では最強である。)

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

ペドロ・パラモ (岩波文庫)


この『嵐が丘』は世界三大悲劇のひとつとされていて、「ドリーな話」(陰々滅々とした話)と小説内でもそんな風に表現されているが、実際読んでみると全くと言っていいほど暗さは感じない。これもやはりエレンの語り口の適当さ(口の軽さ)が影響しているのだろう。「おばちゃんの井戸端会議」的な、時に深刻で、時に大袈裟で、時に適当なエレンの口調が、真実とどこか乖離しているような、でも真実のような絶妙なバランスである。

このような重たい物語を、話好きなおばちゃんに語らせちゃったエミリー・ブロンテはさすがだね。まあ、かと言ってほかにまともに語れそうな人物もいないかもしれないけども。笑。それにしても、語り手を誰にするかというのは非常に重要なのだね。あ、ていうか本来の語り手はロックウッドだった。。ほとんど喋らないんだもの。。まあいいか。

何だかんだでヒースクリフ

そんなエレンやロックウッドより、やはりヒースクリフである。彼の妄信的猛進がどのような結末を引き起こすのだろう、という興味がなによりこの物語の吸引力だし、彼の脳内を覗きみたいという欲求だけでこの小説は読み進めることができる。結果ヒースクリフという人物を理解するには至らないかもしれないが、彼に対する一種の憧れはきっと抱くことになるだろう。ヒースクリフの憧れの対象はキャサリンだが、エミリー・ブロンテの、また僕ら読み手の憧れはヒースクリフその人なのだ。

嵐が丘』は、そんな憧れが重なり合うポリフォニックロマン(ロマンス)小説である。


★ノルウェーブッククラブBEST100リスト


映画は観ていない。

嵐が丘 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: パラマウント ジャパン
  • 発売日: 2005/10/21
  • メディア: DVD

嵐が丘 [DVD]

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kindleでも読めるよ。

嵐が丘

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タイプは違うが、これも狂人への憧れ。マイフェイバリット映画。

『オイディプス王』ソポクレス

ギリシャ文学
ソポクレス Sophokles
オイディプス王』(前429/420)

オイディプス王・アンティゴネ (新潮文庫)

オイディプス王・アンティゴネ (新潮文庫)

  • 作者:ソポクレス
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1984/09/27
  • メディア: 文庫


アイスキュロスエウリピデスとともにギリシャ三大悲劇詩人のひとりである、ソポクレス。その彼の最高傑作といわれるのがこの『オイディプス王』である。

これが書かれたのが大体紀元前420年ということで、何はともあれまず、それほど前にこんなに完璧な(自分の好み偏見含む)作品が出来上がっていたことに驚きである。2400年以上たった今でも、そう感じる人間がいるというのはとても素晴らしいことであり、この作品を残してくれたソポクレスに、それを受け継いでくださった方々や訳者の方々に感謝せずにはいられない(盛りめ)。

絶望的運命

さて、そのような作品に出会うというのは、それは生ずべくして生じたひとつの運命である。『オイディプス王』に出会い僕は光を得たが、オイディプスは自身の運命を悟り、自ら光を失った。

おお、そうか、そうなのか!すべてが生ずべくして生じたのだ、すべてが本当なのだ!光よ、これがお前の見おさめだ、、、
オイディプス王』(新潮文庫)p86

その(自分の罪が確信に変わった)瞬間のオイディプスの絶望は想像を絶する。確かにオイディプスに差し出された真実は因果応報ではあるが、そこには偶然という運命の悪戯をはらんでいる。

基本的には自分のその行為が結果を生むが、しかしそれを超える何かが知らず知らずのうちに僕ら人間に影響を与えている。受け入れがたい運命というものに襲われることは誰にでもあることであって、だからこそ読み手の僕らもオイディプスに心を映し、等しく絶望するのである。


心のままに生きる

しかし、絶望的な運命があるのと同様、希望的な運命もある(と思いたい)。『オイディプス王』は悲劇の物語だが、オイディプスの人生はただ悲劇というわけでは勿論ない。心優しい人間による救いもあったのである。だからこそオイディプスは生きて王になった。

結局未来など(神以外)誰にもわからない。よりよい未来を信じ、その為に自らが取る行動には注意深くなくてはいけないが、それだけでは何ともならない未知の未来が常に僕らを襲う。神のみぞ知る、である。

所詮、人間は運命のままに生きるもの、先のことは何一つ分かるはずもございますまい?出来るだけ心のままに生きるのが何よりと存じます。
オイディプス王』(新潮文庫)p71

大事なのは出来るだけ心のままに生きることである。やりたいことをやり、やりたくないことはやらない。というのが人生において一番重要なのだ。出来るだけね。やってはいけないこともある。


オイディプスの神託

とにかく周囲に振り回されることほどつまらないことはない。誰に何を言われようと好きなことをやるべきなのだ。

どう生きようが運命はただ訪れ、人間はそれをただ受け入れなくてはいけないという宿命にある。運命に逆らう術はない。アポロンに神託を訪ねに行くという習慣のない僕らは、その未来を案じすぎず、今の自分を信じ、出来るだけ心のままに生きよということを『オイディプス王』というひとつの作品から託されるのである。

そのご褒美

オイディプス、イオカステ、クレオン、その他無駄のない登場人物たちと、これまた無駄のない真っ直ぐ絶望に向かって突き進む物語が、もう完璧である。

僕に起こるべくして起こった『オイディプス王』との運命の出会い、これは心のままに読書をしてきたご褒美であると思いたい(あ、これでは因果応報か)。

『ハムレット』ウィリアム・シェイクスピア

イギリス文学
ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare
ハムレット

ハムレット (新潮文庫)

ハムレット (新潮文庫)

血にまみれた女たらし!恥知らず、恩知らずの悪党!人非人!好色漢!おお、復讐!
ハムレット』(新潮文庫)p89

ハムレット』はシェイクスピア四大悲劇のひとつで、いわゆる復讐劇である。デンマーク前王である父親をその弟(ハムレットからすると叔父)に殺され、それを父の亡霊から知らされたハムレットが狂気を装いじわじわと復讐を果たしていく。

台詞ありき

しかし、特にハムレットから何かを仕掛けるというわけではなく、むしろクローディアス(現王)のほうから、父親を殺され気が狂った(ように見せかけている)ハムレットデンマーク国外へ追放して殺害してしまおうとしたりと盛んに仕掛ける。

ハムレットはただひたすら狂人になりきり、クローディアスやガートルード(王妃、ハムレットの母)に支離滅裂風の皮肉な言葉をぶつけるだけ、どちらかというと受け身で復讐の具体的な策など無いように見える。さっさとやっちまえよハムレット。と思わなくもないが、勿論それではあっさり話は終わりで、そうならないためにあれやこれやとエピソードが連なる。

そのエピソードひとつひとつもそれなりに興味を惹かれるのだが、しかしそれらよりも、クローディアスやガートルードに向けた皮肉のこもった言葉や他の登場人物たちとの会話、ハムレット自身の独白の台詞それ自体が面白いし重要で、『ハムレット』を、というかそもそも戯曲を楽しむ肝はそこにあるような気もしている。

ハムレット様、なにをお読みで?
言葉だ、言葉、言葉。

ハムレット』(新潮文庫)p69

シェイクスピアはそれらの台詞を書きたいがために、ハムレットを狂人に、道化にさせたのではないかと思わなくもない。

メタ創造あるいはメタ妄想的ハムレット

さて、『ハムレット』はシェイクスピアの創造であるが、この話、そもそも実は全てハムレット自身の妄想だったりするんじゃないか、なんて妄想してみたり。つまりハムレットは父を亡くした時点で本当に狂人になってしまい、彼が聞いた父の亡霊からの言葉はそもそもハムレット自身の脳内に生み出されたもので、本当はクローディアスは兄を殺してはおらず、、云々。ハムレットが創造した物語をシェイクスピアが創造したという。

なんて、全く根拠はないけども(亡霊は他にも従者たちも見ているし)。笑。

しかし『ハムレット』を、そんなメタ妄想的物語という読み方をしても誰にも文句は言われまい。言われるかな。。いや大丈夫、本の読み方は自由である(と自分に言い聞かせる)。

ということで

金言も盛りだくさんであり、オフィーリアの死の謎やポローニアス(実は好きなキャラ)のくだらないギャグなど読みどころ満載の『ハムレット』。各々好きなように楽しむべし。

○○○

ノルウェー・ブック・クラブ「世界最高の小説」BEST100

『マクベス』ウィリアム・シェイクスピア

イギリス文学
ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare
マクベス』(1601?)

マクベス(新潮文庫)

マクベス(新潮文庫)

シェイクスピア四大悲劇のひとつ(『ハムレット』『リア王『オセロー』)。魔女の予言にそそのかされ王を殺害し、自らが王になったマクベスが、その罪の意識に苛まれ破滅していくという話である。

フォークナーの『響きと怒り』のタイトルは『マクベス』のあるセリフから

さて、ということで(こういうこと)今度こそ『マクベス』である。が、普通にのめり込んでしまい、例のフォークナー『響きと怒り』のタイトルに引用された部分に全く気付くことなく読了してしまう。つまり、読んでいるときはその事をすっかり忘れていたのである。笑。

さてブログを書こうかという時にやっと思い出し、確認をした。今回は新潮文庫版の福田恆存訳で読んだのだけれども、ここにその箇所を引用させていただく。

白痴のおしゃべり同然、
がやがやわやわや、すさまじいばかり、
何の取りとめもありはせぬ。
マクベス』(新潮文庫)p125,126

響きと怒り」に該当する台詞は、「がやがやわやわや、すさまじいばかり」の部分。こうやって違う訳を知るとまた少し理解が深まるような気もする。それにしても、読んでいて「白痴のおしゃべり」という文字が目に入ってきた時、あのベンジーの語りがしっかり頭をよぎった記憶があるが、思い出せずそのままスルーしていた。おばか。

しかしあれは確かにすさまじいほどの脳内放出であった。こうなるとまた『響きと怒り』を読みたくなるのである。

とまあ、こうやって影響を受けたものやその引用などと合わせて作品を読むとさらに面白い反面、底なし沼にズブズブと引きづりこまれるようにアレもコレもと読みたくなって、結局何が何だかわからなくなってしまったりする。とは言えあまり気にはせずに、単純に読書は楽しみたい。

妻にたじたじマクベス

オセローもだったが、マクベスもかなり有能な軍人(武将)であって、周囲にもしっかり認められているのに何でそんなことするのかね。やっぱり人間の欲ってのは底なしである(自分棚上げ)。とは言えマクベスは、ちょっと夫人に操られてるとこあるけども。外ではバリバリ仕事する男も、ひとたび家に帰れば妻には頭が上がらないってことだろう。これは古今東西、不変の原則である。

というのは冗談であるが、しかしそういった、マクベスが夫人に発破をかけられてタジタジになる、なんていうやりとりなんかもなかなか面白いのだ。

高密度悲劇

シェイクスピアの四大悲劇中でも最も密度の高い凝集力をもつと紹介されていて、それはヘミングウェイの短編くらい行間を読まなくてはならないためで、実際結構謎な展開が多い『マクベス』だが、逆に捉え方も色々できて楽しめる作品であると思う。

是非お手に。